本当に大切なこと、伝えたいこと

~ 先立つ者の思い ~


保育園から中学校、住んでる地区や子供会まで
ずっと一緒のくされ縁。

私が田舎を離れた後も
帰省した時の
お墓参りとか
近くのスーパーだとかで
なぜかバッタリと出会う。
不思議と縁がある奴だった。


商売をやっていたからか
田舎の友人の中では珍しくFBをやっていて

それで繋がったことがきっかけで
いつからか、帰省の際には必ず訪ねるようになった。

そして

彼が肺癌の再発で入院したのを知ったのもFBだった。



自分よりも先に周りの人を気遣う人で
病気のことは同級生の殆ど誰にも知らせず
仕事を最優先にしながら闘病していた。


病気になってしまった不甲斐ない自分を責め
自分を苦しめる病気を憎んでいるように見えた。

 

彼は
実家の酒屋を一緒に切り盛りしている母親を
ひとり残して先に逝く訳にはいかないと

思っていたのだろう。

  

「はよ(早く)治らんとあかんのや」
が口癖だった。

 


8月、大阪で用ができた際
田舎まで足を伸ばして彼を見舞った。

  

病気が随分と進行しているようで

それまでとは様子が違っていて
気弱で妙に涙もろく

  
「来てくれてありがとう」と泣き
「かあちゃんの事が心配」と泣いた。

 

 

翌月 名古屋に用事ができた際に
田舎の福井まで、往復2時間のトンボ返りだけど
少しでも顔を見たいと行くことにした。

 

病院は駅からすぐの場所だから
1時間は居られるかな。
そんなことを思いながら向かっている途中に
友人から
彼が亡くなったと連絡が入った。

 

 

 

失望のなか
とにかく、とにかく顔だけは見に行きたい。

彼の自宅まではローカル線に乗り継がなくてはならない。
とにかく一目、10分でもいいからと必死の思いで

彼の自宅に向かった。

 


田舎の無人駅で待っててくれていたのは
私の母だった。


家には帰れないけどと
念のために連絡を入れていた妹から事情を聞いて
駅で待っていてくれたのだった。

母の顔を見た瞬間
張り詰めた気持ちが緩んで
どっと涙が溢れてきた。

 


結局、彼のご遺体とは会えなかった。

いつも訪ねていた酒屋が住まいではなかったようで
弟さんのお家に運ばれていたらしく
それを知らなかった私は

どこにいったら良いか途方にくれ


トンボ返りで名古屋に戻る次の電車の時間まで
母と30分ほど 無人駅で過ごした。

母とは半年ぶりの再会だった。

一人お母さんを残して逝ってしまった彼の

心残りを感じながら

久しぶりに会った母との時間は

短いながら温かい時間だった。


戻りの電車で気がついたことがある。
母と過ごした時間は
きっと彼からのプレゼントだったのだと。

8月に会ったときに
「俺のことはいいから
かあちゃんのこと 大事にしてくれ」と

何度もに言っていたのを思い出した。

 

もっと親孝行したかったのだろうな。

 

そして

ちっとも親孝行ができていない私への

彼からのメッセージだな。

 

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