生を知るために死を振り返る

それは
初めての 死 との出会い



「友だちになろう!」
「うん」

「ぼく、ふ さ え って言うんや」
「あたし、ひろみ」
 
小学校の入学式から
1週間ほど過ぎた頃だったか。
 
  
  
    
私は たぶん変わった子どもで
 
生まれてきてしまったという
後悔のような気持ちと
これから何年も
生きていかなければならないという
途方もない不安のようなものが
いつも背後にあった。
 
そして、油断してそれに襲われないように
飲み込まれて抜け出せなくならないように
できるだけ感じないよう
思考を止めている状態で生きていた。

一見、何を考えているか分からない
ぼーッとした子どもだったかもしれないが
6歳にして内面はかなり鬱屈していた。
 
  


帰り際に
「やっぱり、友だちになるのやめたっ」
「友だちになるの、やめるのやめた!」
「やめるのやめるのやめた!」

冗談のような言葉遊びを交わした。

でも本当は
彼の  誰にでも屈託なく
ニコニコしている性格が
妬ましくて
意地悪したかった。
   
  
   
   
翌日、ふさえちゃんは学校に来なかった。

朝の会で先生が
「昨日の夕方、うすだふさえさんが
自動車にはねられて亡くなりました」
と言った。
  
   
   
クラスのみんなで
葬儀に参列するために
歩いて向かう途中
溝に菊の花束があった。

濁ったヘドロのような水が
妙にグロテスクだった。
ふさえちゃんの
身体の一部かもしれないと思った。
  
      
人ってあっけないなという氣持ちと
意地悪したまま逝ってしまった後味の悪さ
 
みんな泣いてたけど
私は泣けなかった。
 
     
       
机の上の花がなくなり
その後 同級生からは
ふさえちゃんの名前を
聞いた記憶がない。
 
私の記憶からは消えない。
 
 
 
小さくて
にこにこ笑っていた
おかっぱの可愛らしい男の子。

生まれて初めての
「死」との対面だった。

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4年後
私自身が 数時間だけ
ふさえちゃんのいる世界を訪れた。
   
あちらの次元とこちらとは
境目があったのだろうか。
  
或いは
ある瞬間に道が別れていくのだろうか。

父からもらったもの


病院嫌いの父は
癌が見つかったときには
既に余命3ヶ月と言われ

胃から転移したガン細胞で
内臓全体が真っ黒になっていた。

入院しても病院嫌いは相変わらずで
薬は飲まずに枕の下に隠していたり

亡くなる1週間前には
病院を抜け出して
映画に行ったりもしていたようで

ある意味、死ぬまで譲れない領域は
守っていた人だった。



そんな父が
病院で転んだとの連絡を受けて
すぐに帰るつもりで、1歳の息子を夫に預け
一人で田舎に駆けつけた。

その日は寝たり起きたりの状態だったが
時々目を覚まして
少しだけ会話もでき
夜になって
妹家族や母は家に戻ることに。

私と父の友人との二人が
自分達の意思で付き添うために病院に残ることにした。



その夜
徐々に辛そうな状態になり
目を開けることが殆どなくなり
苦しそうな表情で、立てた膝を何度も組み変える父の足を
私は何時間もさすり続けていた。

この一時が過ぎれば また父が返ってくることを
疑うことなく何時間も。



そんな時、看護師さんから
「一度 ご家族を呼びましょうか。
ゆっくりでいいので、来てもらうように
お電話してきてください」

 

妹に電話を掛けて
戻った私を待っていたのは


息を引き取ったばかりの父だった。
~~

この経験は
何年も私を苦しめた。

とても好感を持っていた看護師さんだった。

しかし、後から沸いてくる不信感が拭えない。


父の側についていたにも関わらず
死の瞬間にいてあげられなかった。


その後、この経験が感謝に変わったのは
エリザベス・キュープラ・ロスの書籍だった。



人は亡くなる時
大切な人を悲しませないよう
その瞬間に
居合わせないようにさせることがある。

と、確かこのような内容が書かれていた。


逆にいうと
私が何時間もさすり続けていたことで
父は苦しくても肉体を離れることが
できなかったのだ。

看護師さんは経験から
恐らくその事を理解していたのでしょう。
そっと私を父から離してくれた。
父はどれだけ苦しいのを耐えていたか。



父は、晩年こそ穏やかな人だったが
怒りの人とも言えるくらい激しい気性で
幼い私は辛い思いをたくさんした。


しかし
亡くなる際の大きなギフトは
その後の私の人生に
多大な影響を与えてくれた。

もらったのは
「愛」そのものだ。



後日談

東京に戻ってからも
悲しくて毎日泣いていた。

その朝も
ひとりでメソメソしていた。

キッチンカウンターに置いてあった
形見の電気カミソリが
コンセントも差してないのに
「ブルブル~!ブルブル~!」

あれから17年
いつも側に父を感じる。

目に見えないものの大切さを
教えてくれた父だった。

 

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死がもたらしたもの

人生の中で、さまざまな人の死の場面に出会ってきた。

それが意味するものは何なのだろうか。

 

かなりのインパクトを持って、間違いなく私の人生に影響を与え続けている。しかし、ネガティブな感情に浸ることを避けるという行為を選んできたからか、どのように私の人生に関わっているのかを認識しないまま流してきてしまった。

 

印象に残っている死の場面を、これから少しずつ書き綴ってみようと思う。

 

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95:5 の 秘密

量子物理学で証明されていること

超心理学で言われている潜在意識と顕在意識の割合

コスモロジーでいわれ始めた非物質と物質の割合

バシャールやエイブラハム達の宇宙意識の理論

 

これらに共通するのが

「95:5」の法則

 

量子物理学では、物質をミクロの単位まで分解していくと、エネルギーと物質の割合が

95%:5%

 

心理学で言うところの潜在意識と顕在意識の割合も諸説あるものの

95%:5%

 

天文学でいうと、全宇宙の星達をひとつにまとめると、空の部分と物質の割合が

96%:4%

 

そして、宇宙意識は

人の意識の一部が現実に投影され物質化されているという。

 

私たち人間だって、体をミクロ単位まで細分化していけば、物理学でいうところのエネルギーと物質に分けられるはず。そしてその割合は、95:5。実に95%はエネルギーでできているのだ。感情によってエネルギーが変化するのなら、喜びが伝播したり、悲しい気持ちが移ってもらい泣きすることなども納得のいくことだ。祈りのエネルギーは遠くまで届く。憎しみや恨みなども、伝わってしまうのは当然だ。

 

日頃私たちは、人間関係やお金や成果など目に見えることが自分の思い通りにならなくて、苦しんだり悩んだりしていることが多い。けれども、目に見える現状は、実は内面がたった5%顕在化しただけのものだとしたら、変化させることは本当は簡単なのかもしれない。

 

鏡に映った顔の表情が気に入らないといって、先に鏡を笑わそうとするような矛盾したことをやめてみる。そして、本物の自分は、鏡に映っている一部だと思い込んでいたのをやめてみる。

 

嫌いな人がいたり都合の悪いことを言われたりして、人間関係がうまくいかないのは、実は自分の中の嫌な部分を受け入れられないだけ。

お金がないのは、実はとても豊かだということに目を背けているから。

成果とか人に認めてもらえないことを嘆いているのは、自分の価値を自分で認めていないから。

 

目の前に現れる人は「すべて自分の一部」

持っているお金は「自分が豊かさを感じている量のエネルギー」

そして自分の存在をまるっとOK!にしてみる。

 

全ては自分の中にある。

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